2016年2月17日 | 森山史海
「中傷サイト被害最前線」 第16回 ねじ曲がって伝えられる被害訴えの現実
Yahoo知恵袋にも、ネット上の多くの誹謗中傷に関する相談が寄せられています。先日も、ネットの集団いじめの温床であり、いわば合法的に誹謗中傷が許されてしまっているといっていい、2大掲示板に「責任をもってけじめをつけてほしい。管理人の責任はどうする」といった書き込みを見つけました。淡々とした調子の長文のその書き込みからは、決して感情的になるまいと自分を抑えながら、やり場のない思いをなんとか伝えようとする、投稿者の強い思いが伝わってきました。
ある意味、不思議ことではありますが、こうした文章は必ずしも読み手の共感を得るとは限らず、さらにいえば、逆に書き手側が否定的にとらえられる現実があります。たまたま、私とこの投稿を一緒に読んでいた人からも、投稿者側の人格的なものを疑う発言がありました。
尋常じゃないイメージを与える長い文章。攻撃的な書き方や乱暴な書き方はされていなかったものの、執着的ととらえかねない抗議の姿が、どこか普通と違うひねくれた性格の人間のようにとられ、さらには「だから誹謗中傷されるんだ」という結論に。こうした捉え方のパターンは、現実に存在しています。そして、このパターンのなかで、問題の本質について、社会が思考停止してしまう、という現実もあるように思えてならないです。
誹謗中傷に苦しんできた人たちを見てきている私からすれば、この投稿を読んでも前記のような書き手の人格を疑うような方向の捉え方には、決してなりません。この人は、どれだけ辛い思いをしてきたのだろう。人を信じられなくなったり、生きる意味すら見失うこともある中、ギリギリのところで問題に立ち向かっている。前記したように、私には感情を押し殺しながら訴えるその投稿から、必死に乗り越えようとしている気持ちが痛いほど伝わってきました。
「匿名で何気なく放った誹謗中傷で人ひとりの心は簡単に殺せるんだよ。最も卑怯で残虐な行為。目に見える戦争の方がマシ。誹謗中傷は誰も気づきことができない殺人だからな。戦争は目に見える人の体を殺すが、誹謗中傷は心を殺す行為だからな」
「お前らが傷つけまくった人たちの死んだ心をどうやって責任を取る?自分のやったことの始末をどうやって取る?」
びっしりと書かれたこうした投稿に対する回答のほとんどは、「気にしなければいい」「時間が解決する」といったそっけないもので、その温度差にも愕然とさせられました。もし、自分や自分の大事な人が本当に誹謗中傷され苦しんでいる姿を見ても、同じ回答ができるだろうか。そんなことが頭を過りました。そして、やはり被害の現実を「知ること」「知らせる」ことの重要性を改めて認識しました。
今まで私たちサイバーオーディターが活動してきた理由も、まさにここにあると思いました。現実をもっともっと発信し、知らせなければいけない。今のままではいけないと思います。
この投稿に「こういう活動をしている団体もあると知ってください。あなたの思いをもっと伝えてください」とコメントし、サイバーオーディターのURLを書きました。翌日、ベストアンサーとして選んで頂きました。返答のなかでは、コメントへのお礼とともに、「(投稿を)書いた当時、かなり鬱憤が溜まってしまって爆発してしまい、とても反省しています」と書かれていました。前記したように、私には感情的なものは感じられませんでしたが、やはり人格批判のような否定的な捉え方が、的外れであると改めて思った経験でした。
中傷サイト被害最前線
第1回 サイバーオーディター (コラムが残っていないため表示できません)
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